町会長挨拶

私が町会長です

私、室伏裕一はこの町、大井庚塚町に生まれたのは昭和24年4月19日でした。そして、うさぎ幼稚園、原小学校、伊藤中学校と、ここ大井で勉学に勤しんだのです。その頃の大井庚塚町は水神池に端を発した品川用水の一部が町の中央を流れ、その用水を中心にして滝王子方面、大森山王方面へと丘が上っている地形でした。この用水は鹿島町会との境界を流れてきた用水本流と公園で合流し、鹿島谷へと流れ、東海道本線の線路下を通って海へと流れていたのです。この用水の周囲は長屋とか当時の文化アパートなど住宅と小さな商店街、鍛冶屋、工務店等仕事場がありましたが、丘には広いお屋敷があったのです。本当に広いお屋敷で、門の内側は森の状態で母屋は見えないほどでした。ここ大井庚塚町はお屋敷町だったのです。例えば、グレースヒルズ山王は守随さんという一軒でした。同じように庚塚町会会館の上(南側一区画全部)、丘の上は三木さんの一軒だったのです。そう、10番1号辺りは我が家の畑でした。借地でしたが、隣のおばさんが手伝いしていた私に、ご褒美にお菓子をくれたことを薄っすらと覚えています。

私が生まれ育った戦後しばらくの頃はこの川と大きなお屋敷の森とで自然あふれる町だったので遊びはこの自然と一緒でした。お屋敷の森に入って木の実を拾ったり、そう、椎の木林がありました。場所は山王ですが区境界の隣地です。(現在の山王オーディアムの所、大きな椎の木があります)椎の実は焼いて食べられるのです。その当時のおやつでした。この椎の木林には大銀杏がありました。大きな枝の中に廃材で小屋を作ったりして遊んだものです。この椎の木林もお屋敷の跡だったのです。直接川とは繋がってなかったのですが、大山池という大きな池がありました。元は釣り堀だったとか、いろいろな魚やザリガニ、トンボがいてみんなで釣りやトンボ釣りなどして遊んだ場所でした。その頃冬になると凍結して全面氷となることもありました。当時の腕白な子供達、やっぱり中まで入って氷が割れてドボン、とか。

町会を意識したのは鹿嶋神社のお祭りでしょうか。町会事務所にお神輿が組まれると自分の担ぎたいポジションを確保するため担ぎ棒に自分のタオルを巻きつけたものです。ただ、近所の友達とのポジション争いです、何となく力関係で決まってしまったのでした。何時かは良い場所に付くぞ、って。

少年野球もありました。町会のおじさんが仲間を連れて練習に行ったら帰りに近所のお店でアイスクリームを奢ってくれたのです。いつも買っているお店のホームランバー、只で食べられるなんて町会って良いな、と思ったのでした。

子供の頃の思い出、いつの間にか美化されるかもしれませんが、何時まで経っても消えることはないでしょう。

町会は地域の安全・安心を確保するため町民と行政を結ぶ役目だけでなく、町会会員相互の親睦を図り、その会員の家族、子供達に夢と希望を与えることがとても大切な役目となっています。

私が生まれ育った大井庚塚町は今新しい大井七丁目・大井庚塚町会になっています。(1964年9月15日住居表示実施)地域の氏神様である鹿嶋神社の例大祭、町会が行う夏の子供祭り、区民まつり、そして地域の地区委員会が行うみかん狩りなどの親子の楽しい事業など、今育っている子供達に素敵な思い出となるような町・町会になれば良いなと思って町会活動をして行きたいと思っています。